卒業制作展・人生で一番ながい12日間
一部、きびしい言葉遣いをしていますが、ご堪忍下さい
「卒業制作展」は、全員がそれぞれ大学生活最後の1年間(厳密には9ヶ月)をかけて制作する卒業制作作品を、はじめて社会へと発表する、とても大事な機会であります。例年4月から準備が始まり、会場設計、作品の情報集め、会場の受付で同時に販売する全作品を網羅したカタログとDVD、会場内のサインからポスター、フライヤー、ウェブ、さらに初日に行われるゲストを迎えたレセプション・パーティー、広報、数百万規模で動くお金を管理する会計などなど、多くのメンバーと部署によって支えられる、大変大掛かりなプロジェクト。僕はデザインチームの統括という立場から、ずっとこの卒展に関わってきた。
最初の「問題発生」は11月で、それまで赤レンガに参加するはずだったリーダー格の実務チーフが突然出展をキャンセル、チームから抜けてしまう大波乱が。メンバー全員で緊急集合し、話し合い、とにかくデザイン候補のアイデアをどんどん出していく事に。水曜日に集まったら次は金曜日、次は土曜日、そして月曜日と、ものすごい密度でアイデア交換がなされていく。最終的に、山本さんが描いた「惑星」のビジュアルをそのまま生かす、ちょっとアナログな方向性に決まった。ここから山本さんが全ての広報物をチェックするアート・ディレクション担当へと意向し、それを元に各チーム(カタログ・会場・ウェブ・記録など)が動き始めた。この辺でようやく、12月。
みな、就職活動や自分の卒制を抱えながらの全力疾走。でも問題も多し。僕は、特にカタログ班のある女子とむちゃくちゃ仲が悪く、特に相手が大事な"印刷会社"を勝手に決めてしまったりで大揉めになったりもした。引っ張ったり引っ張られたりしながら、連日の外出や集合、電話やメール交換、さらにチームによっては深夜までのSkype会議、等々が続けられる。時に厳しい言葉での喧嘩にもなりながら、印刷会社と自宅との往復の日々。2月になると大学が閉まってしまい、自分はカタログに添付するDVDを"ひとりチーム"で作業していった。
当日が近づくと、映像を出展するメンバーで、会場内でどう映像を展示するかの話し合いも始まる。今回は株式会社シャープ様ご提供の、60インチ最新液晶テレビを4台も使えることが決まり、これを台にどう置くかが問題となった。とりあえずグラッと来たら危ないだろうとのことで、耐震用ジェルを使って台の上にテレビを固定することになった。100円ショップで売っているような安物もあったけれど、平野&宮脇氏のリサーチでゲットした、震度7にも耐えられるという1セット3500円もする強力なジェルを(さらに格安で)用意した。やっぱ借り物だし、万が一の為にねぇ、なんて具合の軽いノリ、深い意味はなく。
また、レセプション・パーティーには、「美術手帖」の編集長をお迎えしたトークショーが行われることも決まった。同時に、Ustream(インターネット生放送サイト)でのネット生中継の案が出る。これの詳しいやり方を知っているのは僕と朝倉君だけで、その朝倉君は会場の機材貸し出しの全権を握っている大忙しな人だったこともあり、僕にその役割が回ってきた。どうせやるならついでなら、という感じに、会場の2階の使用されていない部屋をUstreamの放送局に見立て、期間中出展作家を呼んで自分の作品の解説とかしてもらおうよ、という企画を出してみる。とにかく準備が進められることになった。
そして迎えた準備の初日。搬入はスムーズだった。全員でトラックから荷物を積み下ろし、会場班が作った完璧な配置図を元に各階へ運び込んで設営スタート。僕は、買ってきたLANケーブルを映像チームと天井に這わせて設置。テストがてら、とりあえず設営の様子をネット生中継してみた。
強力ジェルを使った、テレビの設営も早々に終えた。自分は30分を超える長編作品だったこともあり、ひとつの部屋を借り切って専用シアターを作ることが出来た。5.1chサラウンド・ミックスで上映するために、自前の小型スピーカーセットも持ち込んだ。これの設置もそれほど時間がかからなかった(数日に分かれたけれど……)。
準備2日目は、家でみんなの映像をまとめる最終作業。準備3日目(最終日)にこれを会場へと持って行って、無事再生テストも終わらせた。揉めに揉めたカタログも、僕がほぼ一人で作ったDVDも(インスタレーションの映像収録は本荘君。またデザインは山本さん、大工原さんがギリギリまで修正してくれた、感謝)、全てドーンと会場に到着していて、あちこちから感嘆の声が上がっていた。あとは本番を残すのみ! 会場のサインやハンドアウト、その他の細かなもののデザインも素晴らしかった。物販のメンバーともいくつか相談をしていた。
そして迎えた当日! 2011年3月11日。なんだか1が続いて気持ちのいい日付。午前11時、いよいよ1年がかりで準備を終えた、みんなの4年間の総決算『多摩美術大学情報デザイン学科情報芸術コース 2010年度卒業制作展』の幕が上がった。
この日だけ平日なので、最初の入りはちょっと穏やか。でも次第に人が入り始める。赤レンガ倉庫が100周年とのことで、広場では人文字を作る企画が行われていて、僕らからも何人かが人数合わせに駆り出されていた。
2階のUstreamブースはいつの間にやらメールを使いたい人の溜まり場となっていて、この日の夕方から行われるレセプション・パーティーを担当するチームが入れ替わり立ち代り、この部屋の中で準備を進めていた。それがひと段落したので、会場の生中継を再開。僕はまだお昼ご飯を食べていなかった。近くにいたメンバーのひとり(イシケンですね)も食べておらず、忙しいなら僕がコンビニで買って来ようか、と声をかけた。ついでにレセプション・パーティーで使う原稿のコピーも頼まれた。最近は、USBメモリに入れたPDFのデータとか、コンビニのコピー機で印刷出来るんですよね、便利だ。赤レンガ倉庫の周囲は海とショッピング・モールしかなく、コンビニはみなとみらい線の駅前まで行かなければ存在しない。ゆっくり歩いていきましょう。映像組の何人かにも声をかけて、僕が帰ってきて15時過ぎになったら、3人でとりあえずUstでもしてみようか、ということにもなった。この頃になると会場の人の入りは上々で、とてもいい雰囲気だった。
14時46分、僕は既に地下鉄の出口そばにあるビルの一階のローソンに着いていて、頼まれたおにぎり2個と自分の昼飯である「背脂醤油とんこつラーメン」を温め終え、店内のマルチコピー機でUSBメモリから書類を印刷しようとする直後だった。店内のお客さんは僕ともう一人。お昼時を過ぎて閑散とした店の中で、僕はマルチコピー機の前に立っている。画面に「紙がありません」と出てきた。そうか、と思いながら店員さんに補充をお願いしようかなと思った、その時、おもむろに地面が揺れ始めた。
おっ、久しぶりの地震だ、と思った途端からゆっさゆさと店内が動き始め、揺れは思った以上に長く、そして激しく大きくなり、若い女性の店員2人が悲鳴を上げる。本当はこういう時に慌てて建物の外に出てしまうのは危険なのだけれど(上から物が落ちてくるし、多くの場合ビルが潰れるというケースは少ないから)、さすがに恐怖が勝ってしまって店に居た客とその店員、そして店長のような方が全員そのまま店の中から外へと飛び出す。車は走っているが、道路はぐうらぐうらと揺れ続けていた。標識や案内板がぶるぶると首を上下させ、建物のきしむ音がする。周囲すべてのビルから次々と人が吐き出されて来て、歩道はスーツや従業員服姿の人で溢れていた。これほどの揺れは生まれて初めてでびっくりしたけれど、途中からこれ以上大きくはならないであろうピークが感じ取れたので、隣の、店員さんを慰める店長さんと「(震源地は)太平洋ですかね」なんて(揺れたまま)二言三言話す。「宮城で地震が続いていましたから、その関連かもしれません」と店長さん仰っていたけど、……ううむ、すごい。
揺れが収まり店内に戻ると、品物は棚から少し落ちていたものの目立った被害はないようで、僕の昼食もちゃんとコピー機の上に置かれたままだった。紙を補充して頂いて無事印刷を終え、コンビニ外の入り口のカドで背脂醤油とんこつラーメンを食べる。そして食べ終える。僕簡単には死ねないな、と思った。
気がかりだったのは会場で、株式会社シャープ様ご提供の60インチ液晶テレビがどうなったかが不安だっだ。赤レンガまで再び歩き出す。遠くにみなとみらいの巨大観覧車が見えた。あそこに乗ってた人は怖かっただろうな。
会場の赤レンガ前では、お客さんが全員外に出されていたようで、広場が人でごった返していた。母も居た。中に入るとスタッフが騒然としている。誰かが『M7.9だって!』と話していた。「ちょっと大きすぎるし、そんなに早くマグニチュードの正確な数字がが出るもんか」とその時は思ったが、それ以上に大きくなろうとは。
2Fに上がる途中で映像担当メンバーと何人も会う。テレビは完璧に無事だったようだ。高級耐震ジェルがこんなところで役に立った。ある一人は揺れ始めた直後からUstブースを飛び出し、揺れている間中ずっとテレビを押さえていたらしい(4台中の1台だけど)。「偉くね?」。偉い偉い。
ただ、3Fの作品がいくつか破損してしまったとのことで、申し訳ないことにお客さんには一旦お帰り頂くことに。ここまで、メンバーのほとんどはtwitterでの断片的な情報しか知らず、震源地はどこで、今何が起きているのか、知っている者はほとんど居なかった。ちょっと地震で混乱したけれど、とにかく今日中に再開出来そうですね、レセプション・パーティーの準備に戻らなければ、とぼんやり考えていたが、赤レンガのスタッフさんが1FのモニターでNHKを流し始めて下さったあたりから、だんだん未曾有の事態が全貌を現し始めた。
交通網は大混乱で、何々線が止まっているといった断片的な情報も出始める。とりあえずレセプションは3日目に延期し、今日は最低限の処置をして安全確保に努め、吊り物が多い3階は余震の可能性をみてひとまず立ち入り禁止、2階の作品で危険そうなものは全て降ろして貴重品だけ控え室から取りに戻ることになった。
処置後、みな赤レンガ倉庫の1階に集まる、交通網が動き出すまではこの場に待機させて頂けることになった。1階のモニターからは、やはりずっとNHKニュース。先が見えない様子に不安が募る。
言うまでも無く赤レンガ倉庫は、目と鼻の先に東京湾がある海に面した立地。とはいえスタッフさんによれば「内湾なので津波はほとんど来ない」とのこと。twitterのタイムライン上には赤レンガのメンバーを心配する声がとても多かった。正しいことかは分からなかったけれど、Ustreamの機材を2Fから降ろし、回線をお借りして、5分間だけ赤レンガ1階からの生中継を行った。八王子キャンパスの副手さんから「無事で何より」との連絡が届く。研究室も無事のようだった。良かった。
先が見えない時間が続く。夕方ごろに家族とも全員連絡が取れた。母はみなとみらいのショッピング・モールで足止め。父は家。弟は町田で足止めらしい。夜は更けて、結局赤レンガのスタッフさんのご好意で、その日は会場に泊めて頂けることになった。19時過ぎには隣の2号館へと移動し、裏口から3Fのレストランへ。夕食がすべて無料で振舞われた。最初は"ドリトス"がテーブルに一袋だったけれど、やがてカットステーキ、ポテト、ご飯、味噌カツ、スパゲティ数種類が次々と運ばれてきて、思わぬご馳走に全員が歓喜。最後にはむしろ「残してはいけない……」というプレッシャーがかかるほどの豪勢な夕飯となった。本当に有り難かった。ちょっとだけお泊り会の感覚が出たことは否めない……。
お腹一杯食べられたので、空腹のひもじさは無かった。赤レンガ内は暖房がちゃんときいていて寒さも無かった。男子は全員床に雑魚寝、女子には赤レンガのジャンパーが貸し出された上で、床に敷かれたカーペットの上で寝ることが出来た。フロア内に1箇所だけLANケーブルが通っている場所があって、その周りでは7〜8人がパソコンからUstreamで、NHKなどの分散放送をずっと見ていた。この1年間、この日の為に全員を引っ張ってきたリーダーと副リーダーは、この間にもスタッフや先生方と連絡をとり、翌日以降の対応をずっと話し合っていた。
僕は午前0時半前後、座布団をお尻に敷いて就寝。その直後、学科長である港教授が自力で赤レンガに到着し、全員を激励していたらしい。
午前4時、1分おきに小さな余震が起き始め、すぐ逃げれるようにと寝てた連中が全員叩き起こされる。直前に新潟でも大きな地震が起きていた。お泊り会気分はとうに吹き飛んでいる。何これ、日本沈むの? さすがにここから夜明けまでの時間は辛かった。全員、あまり言葉もなく、不安そうにただ時間をやり過ごし続けていた。
翌朝、ようやく電車が動き始め、全員出発出来る準備を整える。この日の展示は中止が決まった。本来は会期最終日の予定だった3日目も厳しそうだったが、まだ分からない情勢だった。
朝7時半。使う路線や方角など家の向きが同じメンバーで固まりながら集団帰宅。僕は横浜から相鉄線→小田急線で帰宅。午前10時過ぎに家に戻る。あまりモニターのニュースを見ないようにしていたので、ここでさらに想像を絶するような光景を新聞で読んで愕然とする。が、すぐに開催に向けての次の準備を。こちらは1年間の苦労続きだった準備と、4年間の制作活動の全てがかかった卒業制作展がある。無くすわけにはいかない。
夕方、予備校時代にお世話になった先生から携帯へ直電が来る。久々にお話をした。嬉しかった。
翌朝、八王子キャンパスに、来れるメンバーだけで集合した。残念ながら3日目も中止となったが、新たにリーダー達によって検討されたプランはみっつ。1、搬出用に用意していたあす1日だけを使い、4日目の展示を行う。2、翌週の平日3日間は3階が空いていることが分かり、2階の作品をすべて3階に移したうえで縮小展示を行う。3、諦めて、学内展(卒業式前後に行う、大学構内で行われる縮小展示)の充実に今から力を注ぐ。
こんな状況でも展示を行うのか、という異論もやはり現れた。ここまで来たならやりたい、やろう、という声ももちろん出る。お互いがお互いで想いを吐露し合う。リーダーからの提案で、参加者40幾人、全員でひとつの輪になって、端からひとりひとり、いま思うことを話していった。やりたい、でも来る人は居るのか? 不謹慎とは言われないのか? 電力不足の中でそれでも行う意義とは? そもそも芸術って"こんな"今に必要なものなのか? 次第に話し合いは、僕らが4年間、どんな想いでこの大学に通い続け、学び続けていたのかの、根源に近い話へと変わっていった。
「日常に戻していかなくちゃいけない」と、あるメンバーは言った。僕らが今出来ることは、普段どおりに、生活を元に戻していくことなのではないだろうか。僕らは芸術家だから、今、僕らに出来ることは、この展示をちゃんと完走させて、その日常へと戻ってゆくことなのではないか。こんな今だからこそ、開くことに意味があるのではないだろうか。色々な話になる。リーダーと副リーダーが話しながらぽろぽろと泣き出す。僕は、同時に、こんな(ある意味)どうしようもない4年間でも、みんないっぱしの、芸術家としての自我が芽生えていたんだな、と思って、それなりにじんわりして、胸がぎゅっとなったりしたけれど……。この話し合いは誰も記録していなかったし、写真も一枚も残っていないけれど、あの場に居た全員にあの時間は刻み付けられたと思う。二度と無いような瞬間だった。
最終的には全員の総意で、プラン1に決まった。
そうとなれば明日に備えて赤レンガへ直行して現場を復元しなければ! みんなで神奈中バスを占拠して駅へと向かった。メンバーで一杯になったバスの中で誰とも無くカメラが取り出されて、記念撮影が始まる。これほどの一体感は感じたことが無かった。会場に到着し、復元作業。ただ明日は計画停電があるので、その間は展示を閉めなければならないね、という話もしていた。
復元作業は早々に終わり、帰路につく。
ところが夕方、計画停電の詳細が発表され、メンバー一同が愕然とする。展示時間のほぼすべての枠が、停電区域に入ってしまったのだ。開催出来るのは期間外の約3時間ほどになった。でも、本当にその時間に停電があるのかどうかは分からなかった。この時は、おそらく関東中が翌日に迫った計画停電の錯綜する情報にばたばたしていて、誰も本当の話を知らない状態だった。twitterで逐次流れる情報をチェックしながらメールを回す。決してナメていたわけではなかったけれど、この時になるまでtwitterがここまでの力を発揮するとは思っていなかった。
ダイヤが乱れる可能性もあるので、大事をとってこの日は早く寝た。
翌朝。我が家の計画停電は朝早くからだったので、五時半ごろに起床して電車の運行状況を調べた。アッ、となった。小田急線が運休してしまっていた。相鉄線も半分が不通。大勢の仲間が住む、八王子キャンパスを繋ぐ唯一の電車である横浜線も全線が不通だった。このままでは会場に向かえない! twitterのタイムラインからは同級生の悲痛な声が次々と届く。大急ぎで調べたが、道路も大混乱で、路線バスを使える状況にはないようだった。
陸路は。調べてみると、我が家から、相鉄線が動いている二俣川駅までは直線で約24キロ。初めての土地だが、自転車で飛ばせば行けなくはない距離だ。朝食後も状況が変わらないようならママチャリで飛び出そうとしていたが、直前で同級生から「まだ動くな!」とのメッセージが飛んでくる。自宅待機を命じられてしまった……。
展示は、誰も会場に向かえない為に完全中止が決まった。
横浜周辺に住む1〜2人のメンバーだけが現地に急行し、2階のすべての作品をスタッフと一緒に3階まで移動してくれた。僕はただ家でぐったりしているしか無かった。布団に入ったら夕方まで寝続けることが出来た。この日の停電は無かった。
ほんとに、今回ほど自分のいざの時の無力さを痛感させられたことはなく、周りの方、特に同級生にもう感謝とごめんねをどう伝えたらいいのかも分からない。たぶん一生本人には返せない。後悔したまま死ぬしかない。それが報い。いつまでも終わらない。
自分のことばっかりだな。
2日後の3月16日、久々に小田急線が動き、赤レンガへと向かう。途中乗り換えた駅の改札口では、数日ぶりの駅そばの匂いが辺りに漂っていた。少しづつ、日常が戻りつつあった。
ごく少数のメンバーで避難してもらった2階の作品があちこちに積み上げられていて、3階の中はごちゃごちゃになっていた。自分がシアター用に持ち込んでいたスピーカーもちゃんとバラバラにならずに置かれていたので、箱に詰めてヤマト便を呼ぶ。そのほかの機材はトラックに詰め込まれ、昼過ぎには赤レンガを後にしていた。会場はからっぽになった。わずか3時間半で中断した卒業制作展が呆気なく終わってしまった。最後に、片付けに来れたメンバーで赤レンガの前で記念撮影をすることに。ところが、ものすごい風とどす黒い雲が急に迫り寄りつつあって、天候は最悪だった。「今回の何もかもを象徴するようだね」と笑いあった。
せめて……ということで、卒業式前に行われる学内展では、うちの学科のスペースが拡張されることに決まった。一時は「どうなるか分からない」とされていたが、学内展・卒業式・共に予定通り行われることになった(閉館時間は縮まることになった)。全員でこちらに全力を注ぐことにする。全ての会場レイアウトをやり直し、僕は全員分の映像を再加工して会場用に作り変え、準備は猛烈な勢いで進んだ。赤レンガ撤収が16日、展示開始は20日〜23日。時間が無かった。
18日。準備初日。ちょっと遅刻して行ったら既に映像班のシアター設営は終わりつつあって、分からないトコロを聞いたりしながら機材を最終調整。僕は家での作業が残っていたので、先に帰してもらった。みんな中2日とは思えない元気さと創作意欲で、なかなかの会場の出来具合になりつつあった。
が、この日の19時頃、大学から緊急のメールが配信された。中身を読んで愕然とした。学内展の再中止と、卒業式の中止。思わず目を疑う。きのう、再びやることが決まったばかりだったはずだ。
大学に残っていたメンバーが抗議のために学生課に直行したことがすぐtwitterで伝わった。学生課は既に真っ暗だったらしい。意味が分からない。あまりにも理不尽な幕切れ。頭が真っ白になる。自分の中で張り詰めていた糸が、ぷちぷちと切れ始めるのを感じた。何だか急に、もう、何もかもがどうでもよくなる、冷め切ってしまった。どうやら僕は、もう、この大学を一生卒業できなかったってことで、もうそれでいいのかな、みたいな……。壮絶に移り変わる状況の中で、残り少ない力を振り絞って現場に残っていたメンバーは、学長(?)に案内されて、最後の状況説明を受けたとのことだった。開催、延期、中止、再開催と再中止、次の準備と開催決定、そして開催中止。翻弄され続けながら、全力疾走し続けたみんなの夢が完全に潰えた瞬間だった。
僕もそこそこ頑張った方だったかは分からんけれど、間違いなく死力を尽くして1年間これに携わり続けた他のメンバーの無念を思うとやりきれない。素晴らしいデザインや完璧だったという受付マニュアルを見た者は少数。凝られたレセプションパーティーやUstreamの番組も、とうとうその日の目を見ることは無かった。大喧嘩しながら作ったカタログ&DVDも、500冊以上の在庫を残したまま全てゴミ箱へと葬られることになる。初日中断。動員数で見れば、文句なしに情芸卒展史上空前の大失敗(きっと一生破られないだろう)。誰一人に落ち度はない。残念なことに、あの展示の様子を写真に記録する係りが居なかった。最初の段階で気が付けたら良かったのかもしれない。言い出すとしたらそれは僕の役割だった。悔やみきれん。この巨大な喪失感はきっと、僕らの世代に巨大な影を落とし続けるのだろう。
3月23日。卒業式は中止になったが、学科内で学生と教授だけで行われる学位授与式は無事行われた。袴をキャンセルしなくてよかったね、と女子。先生方のコメントは、全員、今回の地震に関するお話だった。多くの先生がこんなことを言う。これまで数々の歴史的な転換点はあったけれど、この事件は間違いなくそのひとつになるだろう。電気の問題、その他いろいろな点や価値観においても、これまでの日本で止めようと思っても止め切れなかった「過剰な何か」が、これで変わるのではないか。ゼロ年代が本当の意味で幕を閉じたのではないか。ここから日本は変えられるのではないか。変えようじゃないか。
謝恩会はその日の夜、表参道某所のホテルで開かれた。とても和やかな雰囲気だった。ところでどういうわけか企画班は前日になって、メンバー全員で「旅立ちの日に」を歌おうなんて言い出して、全員に歌詞カードを配布し始めてやがる。正直そんなベタな演出が通用するもんかと思いながら、さらに当日になって僕が皆の前で指揮をする(CD演奏なのに……)羽目になって、もう何だかよく分からん状況になってしまったのだけれど、ところがこれが実際にやってみたら皆が涙、涙で、悔しいことにバツグンの演出効果を果たしたのでした。みんな感激しながらの大団円。記念撮影も大盛り上がり。素敵な時間だった。それ以来みんなとは会えていない。大勢とはもう二度と会わないのだろう。人生で一番長い12日間だった。
追記。
そんな感じで無くなってしまった卒業制作展だが、参加出来るメンバーだけで再び集まって、ゴールデンウィーク期間に「学内展」と近い形でのリベンジ・卒業制作展を開くことは出来た。「ゴミ箱」送りのはずだったカタログとDVDも、会場内での販売とネット上の通信販売である程度さばくことが出来るようになる。休日ゆえに、入構時に名前を書かされる閉鎖的な状況で、想像以上に多くの方に来て下さることが出来た。いろんな方とお話することも出来た。期間中、下の学年に引継ぎも行った。ある人は、「来年も地震が起こるといいね♪」と伝えたという。あんまりなエールだけれど、でも、僕らが掴み損ねてしまったバトンをちゃんと拾って笑いながら渡すことが出来た、そんな一言にも思える。本当にありがとうございました。
このシリーズは、次回でおしまい。
2011年05月10日
NAKED DAYS カウントダウン 6 〜卒業制作展・人生で一番ながい12日間〜
posted by i46048 at 01:00| Comment(0)
| 日記
2011年05月06日
NAKED DAYS カウントダウン 5 〜ユーミンプロジェクト〜
ユーミンプロジェクト
二年生の終わり、CGI−A担当教員である佐々木(和郎)先生が突然持ち込まれた極秘プロジェクト――その通称名が「ユーミンプロジェクト」だった。佐々木先生が教授を勤めていらっしゃる東京工科大学の研究室メンバーが手を組み続けられている、松任谷由美との一連のプロジェクトの一環として「東京工科大学の学生」VS「多摩美術大学の学生」によるミュージックビデオ対決が企画されたのだ。CGI-AとBの参加希望者と、それを聞きつけた若干名の他ラボ生、それに東京工科の皆さんが参戦。全員にラフミックス状態の、当時どこにも発表されていない松任谷由美の3曲の新曲が手渡され、この中からいくつでもビデオを作ってみてください、という「お題」だった。技法は自由。期間は約1ヶ月だったように思う。これらの作品は大学名・名前をふせた形ですべて松任谷由美の会員サイトにアップロード、その会員による一般投票によって優秀作が決められ、そのうち1本が本当にミュージック・ビデオとして公式に採用され、各媒体で放送されるという。
誰もちゃんと口にはしていなかったけれど、学生身分の連中にとっては降って沸いたような千載一遇のチャンス。参加メンバーが意気揚々と、この企画の立案者である松任谷正隆との打ち合わせへ挑みに、二駅先の東京工科大学のキャンパスまで歩いて向かった。
その時の打ち合わせのハナシはこちらに詳しい。とにかく「学生らしい作品なんて求めていない、グラミー賞のようなPVを」と鼻息荒い松任谷正隆氏と、その会議室に入る前に我々に「正隆さんに会うときの注意事項」やら「この会議を撮影しますが宜しいですか」とやらをぺらぺらと語っていた、まだ学生の癖に既に業界ズレしちゃっているようなブキミなスーツ姿のスタッフが印象的だった。
僕はこの会議で松任谷正隆の言葉にカッとなって、その場でたてついてしまい、もういい上位なんて狙うもんか、徹底的に「学生っぽい」PVをぜんぶの曲に対して作ってやるぜ、などと一人で意気込んでしまう。1本目は、当時流行りだったコマ撮り(海外PVや竹内泰人が注目されつつあった)のちょっと悲しい作品、2本目は中学の同窓会を撮影したドキュメンタリー、そして3本目は、完成しなかったのですが、モンティ・パイソンみたいに松任谷由美と(その曲でコラボ相手だった)加藤和彦の頭だけ使った棒人間がうんこやおしっこを撒き散らしながら踊り狂って、最後には二人の「結婚しました♪」の写真が出てくるというアニメーション……にそれぞれまとめる。特に完成した1本目も2本目も大変時間をかけて、多くのひとに助けられながらビデオに集約させることが出来た。あの時はみなさんありがとう。
納品は「アップロード」……だったのだが、FTPが不調だったのか締切をぶっちぎったからなのかは忘れたけれど、実際に東京工科の研究室まで持ち込みに行ったことを覚えている。仲間と、東京工科のスレてないほうの学生さんと色々お話して、結果的には夜遅くまで教室でだらだらとしていた。何人かは泊まって行くらしい。教室を出て、仲間とエレベーターホールの前で待っている時にあの校舎の5階? の窓から見えた夜景――住宅街の屋根の低い家々にぽっぽっと明かりが灯っていて、その中を通り抜ける光の箱のような横浜線――が、ほんとにすばらしくて、あの光景は今でも鮮やかに頭に描くことが出来るほど印象的なものだった。この件とは全然関係ないのだけれど、あの灯の下や光の箱の中には何人もの人が僕らが知らないような生活を続けていて、僕らのしていることとは全く関係なしに、きっと明日も仕事に行ったり学校に行ったり家事をしたりを繰り返していくのだろうな、と何かが“分かった”ような感覚をおぼえたのだ。そのカンジ、は、『雨ふらば 風ふかば』のラストシーンへと繋がっている。
で、作品を提出し、それがウェブに公開されたことまでは分かっていたのだけれど、実際の投票状態は隠されていたし、各投票数なんかも一切開示されず、何ともモヤモヤする公開期間を過ごしていたことを覚えている。またその直前、僕が2本目として提出していた「同窓会のドキュメンタリー」が、公開前日になって事務所から「没」になったという連絡が入った。その時の日記はこちら。今でも、あのタイミングでこの決定はアンフェアだった、とは思っている。関わってくれた同窓会の仲間に本当に申し訳無かった。どうだったって聞かれて言いづらかったな……。
で、三週間後だったかその辺り――、ミュージックビデオ対決の審査結果が、いよいよホームページで発表された。結果を見て、愕然とした。3本の音楽作品のうち、ある1本は「これは絶対にありえないだろう」という内容のものが受賞してしまっていたのだ。「ハートの落書き」という“青春モノ”の、ちょっと小恥ずかしいカンジの内容の曲で、これが東京工科の学生の、全員がノーマークだった作品が獲ってしまったのだ。残りの2曲――「flying messenger」だけ多摩美生の受賞(獲った大橋先輩はこれが出世作となった)、「黄色いロールスロイス」はモンティ・パイソンみたいな……おしゃれ映像を制作した東京工科の学生の作品(個人的には妥当だった)。結果、2対1で東京工科の勝利、だった。この3本の中から、またもよりによって、「ハートの落書き」のビデオが公式へと選出。テレビやウェブでこのただ1本だけが世間に向けて放映され、残りの作品は日の目を見ることはなく終わってしまった。
自分の作品はどこまで支持されたのだろう、と知りたかった学生は多かったと思うけれど、「下の順位の人が可哀想だから」との理由で、2位以下の順位は一切発表されなかった。合同講評会のような機会もなく、企画はそのまま静かに終わってしまった。がっかりだった。
僕と話せた限り全員の多摩美側参加者は「どう考えてもあれが獲るなんておかしい」と口を揃える。実際、あまりにも手がこんでおらず、「写真スライドショー」にWindows標準のソフトでエフェクトを加えただけのような内容。プラス、ユーミンが歌う映像。あの当時の多摩美のメンバーで、誰一人として納得している者はいないだろう。
けれど最近になって、当時ぜんぶ保存しておいた「ユーミンプロジェクト」参加全作品を再び見返してみたときに、その「納得できなかった作品」が、当時とは少し違う印象にも見えてきた。……曲の雰囲気と合っていたのだ。写真のチョイスがどれも無難で、そこそこ全員が見て共感出来るような「青春」を感じさせる内容。興奮はしないけれどストライクゾーンは広いような、そんな「無難」を寄せ集めたような、でも同時に一つのビデオとしてちゃんとまとまった何かがあったのだ。プラス、ユーミンが歌っている映像がちゃんと入っていたことも大きかったのだろう。(皮肉ではなくて)結局、ユーミンのファンは、ユーミンの映像が入っているのがとても嬉しいことなのだ。分かりやすい話だった。
あの時、多摩美生がこの作品に納得できなかった理由は、きっと次のふたつのこと。ひとつは作品への手数があまりにも少なすぎて、自分たちよりも圧倒的にぱっぱと作られたようなものが上位になったことのズルさへの憤り。そしてもうひとつ、チョイスされた写真の内容が、まるで素材集から寄せ集めたような“作家性”のない「つまらない」ものばかりで、作家の意図や主張があまりにも脆弱すぎるものだったことがあるのだろう。つまり多摩美生の作品と比べると、圧倒的にクリエイティブが感じられないビデオだったのだ。言わば素人がちょちょっとソフトを覚えて作ったような、とても分かりやすく言うと結婚式の二次会に流すスライドショーのようなビデオ。「雰囲気はいいね、でも『作品』とは呼ばないよね」というやつ。しかし言うまでも無く、作品をばっちり独自解釈しながらクリエイティブを存分に発揮した多摩美学生の作品は支持を得られず、その「結婚式ビデオ」映像が一般投票で首位をとったという事実は悲しいかな変わらない。皮肉だけれど、でもちょっと「そういうモンかもな」とも思えるような、悔しいが逃れられない何かが、そこにはあったのかもしれない。一般の方が「いいっ!」と言ってくれるような作品って、意外とそういうものなのかもな、とも今なら思えるし、ひとつ教訓のようなものを得ることが出来たとも感じる。
ただし少なくとも、これはあまりにも「グラミー賞のようなもの」とは対極にある、「学生作品っぽい」ビデオだったことだけは間違いないだろう。ずいぶん苦い経験でした。
もうひとつだけ。僕が松任谷正隆に会議の場で噛み付いて、しかもそれへのアテツケみたいな作品を作って一人鼻息を荒くしてた件に関してですが、結果発表後の会員サイトで公開された「企画を振り返って」みたいなビデオの中で、スタッフが僕のことを話題に出してみたところ、松任谷氏は「そんな事言ったかしら? よく覚えていないな」みたいな反応をしていて脱力した覚えがある。僕の自意識過剰っぷりは今も変わらない。
二年生の終わり、CGI−A担当教員である佐々木(和郎)先生が突然持ち込まれた極秘プロジェクト――その通称名が「ユーミンプロジェクト」だった。佐々木先生が教授を勤めていらっしゃる東京工科大学の研究室メンバーが手を組み続けられている、松任谷由美との一連のプロジェクトの一環として「東京工科大学の学生」VS「多摩美術大学の学生」によるミュージックビデオ対決が企画されたのだ。CGI-AとBの参加希望者と、それを聞きつけた若干名の他ラボ生、それに東京工科の皆さんが参戦。全員にラフミックス状態の、当時どこにも発表されていない松任谷由美の3曲の新曲が手渡され、この中からいくつでもビデオを作ってみてください、という「お題」だった。技法は自由。期間は約1ヶ月だったように思う。これらの作品は大学名・名前をふせた形ですべて松任谷由美の会員サイトにアップロード、その会員による一般投票によって優秀作が決められ、そのうち1本が本当にミュージック・ビデオとして公式に採用され、各媒体で放送されるという。
誰もちゃんと口にはしていなかったけれど、学生身分の連中にとっては降って沸いたような千載一遇のチャンス。参加メンバーが意気揚々と、この企画の立案者である松任谷正隆との打ち合わせへ挑みに、二駅先の東京工科大学のキャンパスまで歩いて向かった。
その時の打ち合わせのハナシはこちらに詳しい。とにかく「学生らしい作品なんて求めていない、グラミー賞のようなPVを」と鼻息荒い松任谷正隆氏と、その会議室に入る前に我々に「正隆さんに会うときの注意事項」やら「この会議を撮影しますが宜しいですか」とやらをぺらぺらと語っていた、まだ学生の癖に既に業界ズレしちゃっているようなブキミなスーツ姿のスタッフが印象的だった。
僕はこの会議で松任谷正隆の言葉にカッとなって、その場でたてついてしまい、もういい上位なんて狙うもんか、徹底的に「学生っぽい」PVをぜんぶの曲に対して作ってやるぜ、などと一人で意気込んでしまう。1本目は、当時流行りだったコマ撮り(海外PVや竹内泰人が注目されつつあった)のちょっと悲しい作品、2本目は中学の同窓会を撮影したドキュメンタリー、そして3本目は、完成しなかったのですが、モンティ・パイソンみたいに松任谷由美と(その曲でコラボ相手だった)加藤和彦の頭だけ使った棒人間がうんこやおしっこを撒き散らしながら踊り狂って、最後には二人の「結婚しました♪」の写真が出てくるというアニメーション……にそれぞれまとめる。特に完成した1本目も2本目も大変時間をかけて、多くのひとに助けられながらビデオに集約させることが出来た。あの時はみなさんありがとう。
納品は「アップロード」……だったのだが、FTPが不調だったのか締切をぶっちぎったからなのかは忘れたけれど、実際に東京工科の研究室まで持ち込みに行ったことを覚えている。仲間と、東京工科のスレてないほうの学生さんと色々お話して、結果的には夜遅くまで教室でだらだらとしていた。何人かは泊まって行くらしい。教室を出て、仲間とエレベーターホールの前で待っている時にあの校舎の5階? の窓から見えた夜景――住宅街の屋根の低い家々にぽっぽっと明かりが灯っていて、その中を通り抜ける光の箱のような横浜線――が、ほんとにすばらしくて、あの光景は今でも鮮やかに頭に描くことが出来るほど印象的なものだった。この件とは全然関係ないのだけれど、あの灯の下や光の箱の中には何人もの人が僕らが知らないような生活を続けていて、僕らのしていることとは全く関係なしに、きっと明日も仕事に行ったり学校に行ったり家事をしたりを繰り返していくのだろうな、と何かが“分かった”ような感覚をおぼえたのだ。そのカンジ、は、『雨ふらば 風ふかば』のラストシーンへと繋がっている。
で、作品を提出し、それがウェブに公開されたことまでは分かっていたのだけれど、実際の投票状態は隠されていたし、各投票数なんかも一切開示されず、何ともモヤモヤする公開期間を過ごしていたことを覚えている。またその直前、僕が2本目として提出していた「同窓会のドキュメンタリー」が、公開前日になって事務所から「没」になったという連絡が入った。その時の日記はこちら。今でも、あのタイミングでこの決定はアンフェアだった、とは思っている。関わってくれた同窓会の仲間に本当に申し訳無かった。どうだったって聞かれて言いづらかったな……。
で、三週間後だったかその辺り――、ミュージックビデオ対決の審査結果が、いよいよホームページで発表された。結果を見て、愕然とした。3本の音楽作品のうち、ある1本は「これは絶対にありえないだろう」という内容のものが受賞してしまっていたのだ。「ハートの落書き」という“青春モノ”の、ちょっと小恥ずかしいカンジの内容の曲で、これが東京工科の学生の、全員がノーマークだった作品が獲ってしまったのだ。残りの2曲――「flying messenger」だけ多摩美生の受賞(獲った大橋先輩はこれが出世作となった)、「黄色いロールスロイス」はモンティ・パイソンみたいな……おしゃれ映像を制作した東京工科の学生の作品(個人的には妥当だった)。結果、2対1で東京工科の勝利、だった。この3本の中から、またもよりによって、「ハートの落書き」のビデオが公式へと選出。テレビやウェブでこのただ1本だけが世間に向けて放映され、残りの作品は日の目を見ることはなく終わってしまった。
自分の作品はどこまで支持されたのだろう、と知りたかった学生は多かったと思うけれど、「下の順位の人が可哀想だから」との理由で、2位以下の順位は一切発表されなかった。合同講評会のような機会もなく、企画はそのまま静かに終わってしまった。がっかりだった。
僕と話せた限り全員の多摩美側参加者は「どう考えてもあれが獲るなんておかしい」と口を揃える。実際、あまりにも手がこんでおらず、「写真スライドショー」にWindows標準のソフトでエフェクトを加えただけのような内容。プラス、ユーミンが歌う映像。あの当時の多摩美のメンバーで、誰一人として納得している者はいないだろう。
けれど最近になって、当時ぜんぶ保存しておいた「ユーミンプロジェクト」参加全作品を再び見返してみたときに、その「納得できなかった作品」が、当時とは少し違う印象にも見えてきた。……曲の雰囲気と合っていたのだ。写真のチョイスがどれも無難で、そこそこ全員が見て共感出来るような「青春」を感じさせる内容。興奮はしないけれどストライクゾーンは広いような、そんな「無難」を寄せ集めたような、でも同時に一つのビデオとしてちゃんとまとまった何かがあったのだ。プラス、ユーミンが歌っている映像がちゃんと入っていたことも大きかったのだろう。(皮肉ではなくて)結局、ユーミンのファンは、ユーミンの映像が入っているのがとても嬉しいことなのだ。分かりやすい話だった。
あの時、多摩美生がこの作品に納得できなかった理由は、きっと次のふたつのこと。ひとつは作品への手数があまりにも少なすぎて、自分たちよりも圧倒的にぱっぱと作られたようなものが上位になったことのズルさへの憤り。そしてもうひとつ、チョイスされた写真の内容が、まるで素材集から寄せ集めたような“作家性”のない「つまらない」ものばかりで、作家の意図や主張があまりにも脆弱すぎるものだったことがあるのだろう。つまり多摩美生の作品と比べると、圧倒的にクリエイティブが感じられないビデオだったのだ。言わば素人がちょちょっとソフトを覚えて作ったような、とても分かりやすく言うと結婚式の二次会に流すスライドショーのようなビデオ。「雰囲気はいいね、でも『作品』とは呼ばないよね」というやつ。しかし言うまでも無く、作品をばっちり独自解釈しながらクリエイティブを存分に発揮した多摩美学生の作品は支持を得られず、その「結婚式ビデオ」映像が一般投票で首位をとったという事実は悲しいかな変わらない。皮肉だけれど、でもちょっと「そういうモンかもな」とも思えるような、悔しいが逃れられない何かが、そこにはあったのかもしれない。一般の方が「いいっ!」と言ってくれるような作品って、意外とそういうものなのかもな、とも今なら思えるし、ひとつ教訓のようなものを得ることが出来たとも感じる。
ただし少なくとも、これはあまりにも「グラミー賞のようなもの」とは対極にある、「学生作品っぽい」ビデオだったことだけは間違いないだろう。ずいぶん苦い経験でした。
もうひとつだけ。僕が松任谷正隆に会議の場で噛み付いて、しかもそれへのアテツケみたいな作品を作って一人鼻息を荒くしてた件に関してですが、結果発表後の会員サイトで公開された「企画を振り返って」みたいなビデオの中で、スタッフが僕のことを話題に出してみたところ、松任谷氏は「そんな事言ったかしら? よく覚えていないな」みたいな反応をしていて脱力した覚えがある。僕の自意識過剰っぷりは今も変わらない。
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2011年04月08日
卒業制作作品『雨ふらば 風ふかば』
卒業制作作品、『雨ふらば 風ふかば』をウェブ公開しました。
YouTube(http://www.youtube.com/watch?v=BDUit1ElRms)
ニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/watch/sm14094387)
Vimeo(http://vimeo.com/22076999)
ご感想など、ぜひお寄せ下さい。
また、この作品に、過去の5本の短篇アニメーション、さらに作り下ろし新作を収録した
DVD「アルバム」、『ヒガン』のDVDを販売するショッピング・サイトを立ち上げました!
『MIZUGAME RECORDS』といいます。もしご興味あれば、こちらへご用命下さい。
今後のイベントでも販売してゆきます。
YouTube(http://www.youtube.com/watch?v=BDUit1ElRms)
ニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/watch/sm14094387)
Vimeo(http://vimeo.com/22076999)
ご感想など、ぜひお寄せ下さい。
また、この作品に、過去の5本の短篇アニメーション、さらに作り下ろし新作を収録した
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『MIZUGAME RECORDS』といいます。もしご興味あれば、こちらへご用命下さい。
今後のイベントでも販売してゆきます。
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2011年03月30日
NAKED DAYS カウントダウン 4 〜卒展・学外展〜
「卒展・学外展」
なんか長い文章にうまくまとまらなかった話を、まとめて。
CGIの最初の学外展を見に行った時の会場は、
確か桜木町駅出口の、人が行き来しないほうの場所にあった小さなギャラリー。
その時にとても印象的だったのが、絵本だった。
ちょっと詳しくは思い出せないのだけれど、
小学生くらいの男の子が、お祭りの日にお化粧もして地元の踊りに参加するのを
女の子が目撃するというシンプルなお話。
絵と、色彩と、普段のその男の子が見せる姿とのギャップがあんまりにも素晴らしくて
うわあああすごおおおい! と大感激した記憶がある。
あの作品、またどこかで見れないかな。
多分「ウサギライダー(?)」で卒業した方です。
僕が一番印象的だった卒業制作展は、やはり最初に見に行った時の
「サイコロ」がモチーフだった2005年度の赤レンガ。
デザインも作品のクオリティも群を抜いていて、ある種の黄金期だったのだと思います。
この学科行きたい、と思いました。
アニメーションも、記憶を売買するアレとかベランダから雷くんが出てくるアレとかの年だったはず。
ロケットも寓意も思い出横丁のお二人も秘密基地もこの年。すごいな。
印象的だったカタログは、idd-Xの時のもの。
その時の印象は今も変わっていません。
あのカタログに起点として描かれていた10年前とは違って、
今は、何もかも現代アートに明るい時代――ではなくなった。
ゼロ年代が終わって、こないだの地震でまた何かが終わって、
僕らが今まで以上に生き辛くなるはずの時期に突入して……。
あのカタログが、あのタイミングで生み出されたのは必然だったのかもなぁ。
僕らはそういう、時代が切り替わる瞬間みたいなものをこの学科の歴史のどこかに刻み込めたのかな。
その他の、特に自分が関わったであろう3年までの学外展では
相手と喧嘩しなかったことが無かっただけに、ちょっとおもいだしたくないよう。
今でも許せないことはいくつかある。怨んでやると思った相手もいる(これは、どうでもよくなったけれど)。
赤レンガへの参加はこれらを切り抜けてなければ上手く出来なかったはずなので、
参加できたことへの後悔はまったくありません。あの時いろいろみんなありがとう。
どちらも、もっとお客さんが呼べてたらよかったね。
赤レンガの話は最後に書きます。
なんか長い文章にうまくまとまらなかった話を、まとめて。
CGIの最初の学外展を見に行った時の会場は、
確か桜木町駅出口の、人が行き来しないほうの場所にあった小さなギャラリー。
その時にとても印象的だったのが、絵本だった。
ちょっと詳しくは思い出せないのだけれど、
小学生くらいの男の子が、お祭りの日にお化粧もして地元の踊りに参加するのを
女の子が目撃するというシンプルなお話。
絵と、色彩と、普段のその男の子が見せる姿とのギャップがあんまりにも素晴らしくて
うわあああすごおおおい! と大感激した記憶がある。
あの作品、またどこかで見れないかな。
多分「ウサギライダー(?)」で卒業した方です。
僕が一番印象的だった卒業制作展は、やはり最初に見に行った時の
「サイコロ」がモチーフだった2005年度の赤レンガ。
デザインも作品のクオリティも群を抜いていて、ある種の黄金期だったのだと思います。
この学科行きたい、と思いました。
アニメーションも、記憶を売買するアレとかベランダから雷くんが出てくるアレとかの年だったはず。
ロケットも寓意も思い出横丁のお二人も秘密基地もこの年。すごいな。
印象的だったカタログは、idd-Xの時のもの。
その時の印象は今も変わっていません。
あのカタログに起点として描かれていた10年前とは違って、
今は、何もかも現代アートに明るい時代――ではなくなった。
ゼロ年代が終わって、こないだの地震でまた何かが終わって、
僕らが今まで以上に生き辛くなるはずの時期に突入して……。
あのカタログが、あのタイミングで生み出されたのは必然だったのかもなぁ。
僕らはそういう、時代が切り替わる瞬間みたいなものをこの学科の歴史のどこかに刻み込めたのかな。
その他の、特に自分が関わったであろう3年までの学外展では
相手と喧嘩しなかったことが無かっただけに、ちょっとおもいだしたくないよう。
今でも許せないことはいくつかある。怨んでやると思った相手もいる(これは、どうでもよくなったけれど)。
赤レンガへの参加はこれらを切り抜けてなければ上手く出来なかったはずなので、
参加できたことへの後悔はまったくありません。あの時いろいろみんなありがとう。
どちらも、もっとお客さんが呼べてたらよかったね。
赤レンガの話は最後に書きます。
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NAKED DAYS カウントダウン 3 〜屋上〜
「屋上」
大学2年生で一番しんどかったのが「時空かくれんぼ」の日だとすれば、
1年生で一番辛かったのは「やじろべえ」の講評の日。
子供の頃から、針の穴に糸も通せないほどの手先の不器用さが健在で、
糸ノコもまっすぐに使えないままの半年間は本当にしんどかった。
周りのクオリティに何とか立ち向かおうとして、コンセプトに色々過剰な部分が
今以上に出ていたから、結果的にあんな、物凄く歪なものに仕上がった。
当然担当教授からは扱き下ろされ、ズタズタにされ、
あんまりに悔しくて悔しくて、その日のお昼は旧図書館棟の屋上に上がってひとりでシクシク泣いていた。
あの頃、埃被った暗い階段の先にある、旧図書館棟の屋上に繋がる扉はなぜかいつも鍵が開いていて、
その先には、八王子キャンパスの大パノラマからはるか向こうの荒野、
多摩境のマンション群まで全て一望することが出来た。
何だか、空ばっかり……空ばっかり見ていたな。
この日持っていたデジカメには、なぜだか空ばっかり写した写真が
延々と残っていて、一体何をしていたんだいお前は、と思う。
その日の午後も、生まれて初めて授業をサボって、
そのまま夕方まで屋上のコンクリートの上にずっと一人で座っていた。
いくらなんでも青臭すぎる記憶である。
けれど、今は、1年の前期に工作の課題が続いて、
わくわくしながら始まった大学生活にいい意味で洗礼を浴びることが出来たと感じている。
重すぎるやじろべえ、飛ばなかった凧、継ぎ接ぎだらけの木箱、
色々作らされたけれど、あの時期が無かったら、その先にあった色々なしんどいことに
立ち向かえたかどうかは、ちょっと分からない。
悲しい思いはいっぱいした。結局どうだったのかなあ。
そんな旧図書館棟も、去年の夏に綺麗さっぱりと取り壊されてしまった。
屋上をモチーフにした作品は、いつか作ろうと思っています。
大学2年生で一番しんどかったのが「時空かくれんぼ」の日だとすれば、
1年生で一番辛かったのは「やじろべえ」の講評の日。
子供の頃から、針の穴に糸も通せないほどの手先の不器用さが健在で、
糸ノコもまっすぐに使えないままの半年間は本当にしんどかった。
周りのクオリティに何とか立ち向かおうとして、コンセプトに色々過剰な部分が
今以上に出ていたから、結果的にあんな、物凄く歪なものに仕上がった。
当然担当教授からは扱き下ろされ、ズタズタにされ、
あんまりに悔しくて悔しくて、その日のお昼は旧図書館棟の屋上に上がってひとりでシクシク泣いていた。
あの頃、埃被った暗い階段の先にある、旧図書館棟の屋上に繋がる扉はなぜかいつも鍵が開いていて、
その先には、八王子キャンパスの大パノラマからはるか向こうの荒野、
多摩境のマンション群まで全て一望することが出来た。
何だか、空ばっかり……空ばっかり見ていたな。
この日持っていたデジカメには、なぜだか空ばっかり写した写真が
延々と残っていて、一体何をしていたんだいお前は、と思う。
その日の午後も、生まれて初めて授業をサボって、
そのまま夕方まで屋上のコンクリートの上にずっと一人で座っていた。
いくらなんでも青臭すぎる記憶である。
けれど、今は、1年の前期に工作の課題が続いて、
わくわくしながら始まった大学生活にいい意味で洗礼を浴びることが出来たと感じている。
重すぎるやじろべえ、飛ばなかった凧、継ぎ接ぎだらけの木箱、
色々作らされたけれど、あの時期が無かったら、その先にあった色々なしんどいことに
立ち向かえたかどうかは、ちょっと分からない。
悲しい思いはいっぱいした。結局どうだったのかなあ。
そんな旧図書館棟も、去年の夏に綺麗さっぱりと取り壊されてしまった。
屋上をモチーフにした作品は、いつか作ろうと思っています。
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